私と言語。

ドーモ、読者=サン。ななゆーデス。
本稿は『The 言語 Advent Calendar 2018』の7日目の記事にあたります。

このアドヴェントカレンダーは名称や概要文から判断するに、語学・言語に関係する人が何らかのやべー話をする、あるいは何者かが語学・言語に関するやべー話をするものであるようです。ということは、その名称や概要文を作成した@tsainiaoセンセーから直々のご指名をいただいたうちの一人である私も、少なくともセンセーの頭の中ではそういった "やべー話し手" にカテゴライズされていると考えられます。

けれども私は、じつのところ日本語以外では数か国語で挨拶ができるくらい、そしてその返事が聞き取れず会話が続かないくらいの語学力しか持ち合わせていません。母語である日本語に関しても、義務教育を半ば寝て過ごしたのちWikipediaから少々つまみ食いして知ったような顔をしているだけの素人です。ぐーぐる先生とWiktionary先生とGlosbeちゃんとWeblioくんだけが友達です。嘘です。友達はもうちょっとだけいます。

とにかくそんな私ですが、ならばそんな私と言語との関わりとは? ということを、あらためて書いてみようと思います。隙あらば自分語り、なのです。*1


話は、私がインターネットというものに触れ始めてすぐの頃にまで遡ります。

とは言っても、その頃のことは私自身もう断片的にしか憶えていないのですが……。その断片のうち、すぐに拾い上げられるもので一番古そうなのは、学校の友人たちに影響されてウェブサイトを制作し始めた記憶です。

それから公開までの間に、私はいかなる経緯によってか、インターネットで本名を名乗るというのは危険なことであり、ハンドルネームなる別名を名乗って活動するべきだという認識を得ていました。そんなわけでハンドルネームを考えた私は、その際、自分の母語たる日本語ではなく英語を用いました。日本語だとその辺に存在する生身の人間か単なる物の名前っぽくて、当時の私が考えるハンドルネームらしさに欠ける気がしたとか。日本語以外で目につくところにあった言語が英語だけだったとか。たぶん、その程度の理由からのことだったと思います。

「〇〇らしさに欠ける」、「〇〇に相応しくない」……そう。あれは中二病の初期症状だったのです。つまり英語帝国主義になびいたとか、屈したとか、そういうことではないのです。
ですから、あっ、石を投げないで!!

ふう。

話を戻しましょう。

そうしてまず英語のハンドルネームを使い始めた私は、しばらく経つとMMORPGを遊ぶようになり、そこで自らのハンドルネームが他者によってすでに使用されている、という経験をしました。
単純な名前でしたから、当然ありうることです。当時の私も渋々ながら納得して、少しだけ改変した名前を使い始めました。
けれども翌年、別のゲームのオープン初日にも、私のハンドルネームは他者によって取得されていました。その事態に直面した私は、今度こそインターネットにおける自らのアイデンティティが損なわれているかのように感じました。そして、そのような悲しみを再び味わわないためにも、以後は別の名前を使っていくことにしたのでした。

自己の唯一性・特別性の追求。そうです、あの頃の私はもう中二病を本格的に発症していたのです。今もですが。

話を戻しましょう。

新たな名前を考えることにした私ですが、その時点において、前のハンドルネームを使い始めた時よりも少しだけ多くの選択肢を持っていました。

その増えた選択肢というのが、シンダール語です。*2 より多くの人向けの言い方をすると、『指輪物語』の作中世界で使われる架空言語の一つですね。映画『ロード・オブ・ザ・リングス』とか『ホビット』で、背が低くなく耳はピンとして目のキッとした、ちょっと上から目線っぽくなくもない美男美女がたまに喋ってた謎言語の一種です。ひげもじゃ樽おじさんのウォークライ言語ではなく。

思い出せない? そう……。

たしかに映画も原作も、あの謎言語群を一言も理解しなくたって、それが話されてる場面の字幕や訳文さえ読めれば観たり読み進めたりするのに支障はありません。私自身、小学生の頃から原作を何度も読み返し愛読書であると言いながら、あの言語については高校生になるくらいまでほとんど理解してなかったんですから間違いないのです。

そんな私にとって転機となったのは、本編以外にも『指輪物語 追補編』や『シルマリルの物語』といった関連書籍が存在すると知り、それらを手に入れたことでした。それらは本編と違って資料集的な側面も併せ持っており、作中に登場する言葉をまとめた単語集などを含んでいました。例えば作中の国名 "ゴンドール" は、その単語集における解説によると綴りは "Gondor" であり、意味は "石の国" です。また、基礎的な単語が挙げられているセクションを読むと、"gond" が石、"dor" が国や地域という意味を持つことがわかります。敵国の "モルドール" の綴りは "Mordor" で、"mor" は闇。ゴンドールの同盟国 "ローハン" の綴りは "Rohan" ですが、これも馬を意味するシンダール語の "roch" に由来する国名です。あと映画では言及されてなかったと思いますが、第2部でフロドたちが歩いた死者の沼地と黒門との間には "ダゴルラド / Dagorlad" と呼ばれる土地があって、"dagor" は戦、"lad" は平原や緩やかな谷を意味する言葉なので地名全体の意味はまさに "戦場が原" です。それからそれから……もうちょっと挙げていい? ……話を進めろ? そう……。

ええと。このようにして地名や人名の意味を読み解いていくことは、私にとって物語を単なる物語よりもさらに奥深いものとしました。加えて、既存の地名や人名をより単純な言葉の集まりに分解できるということは、パターンさえ掴めばその逆をできるということでもありました。分解・理解・再構築です。*3

そんなわけで、私はシンダール語を用いて会話ができるというわけではなかったのですが(今もないのですが)、知っている言葉を組み合わせて人名を一つ作り出すくらいなら何とかなるように思われました。架空言語といえば使用者の少なさを短所として挙げられることが多いものですが、自分の名前はなるべく自分だけの名前であってほしいと願う私にとっては、それもむしろ利点と感じられました。
他によい選択肢を持ち合わせているわけでもなかった私は、さして迷うでもなく、そのシンダール語でもって自らを名付け直すことにしました。*4


ところで、

それと同時期に私は、ある地図を描いていました。

直接的な発端は、いくつかのゲームを遊んで作品世界の狭さや自由度の低さに不満を持ち、自分なりにゲームのアイディアを練ってみようと考えたことです。その一環として描き始めた架空の地図はしかし、私にとって単なるゲームの素材ではなく、それ自体が独立した創作物となりつつありました。

地図というものは、現実の何処かを描いたものであれ架空のものであれ、その中に無限の物語を秘めています。*5指輪物語』の口絵の地図を夢中になって眺めていた小学生の頃から、私にとっての地図とはそういうものでした。ですから私自身が架空の地図を考えて描き始めれば、その地図からは現実の出来事でもなければ私以外の誰かが考えたのでもない物語が生まれました。

いつしか私は、ゲームのアイディアよりも、その地図と、地図から生まれた物語こそを形にしたいと考えるようになっていました。

物語がはっきりとした形をとるためには

通常、登場人物や場所などを区別するための名前が必要です。*6 そういった名前はたいていの場合、その名前を持つものの来歴や舞台設定に応じて言語・文化的な制約を受けるはずです。*7 しかしその制約は、来歴や舞台設定や名前の由来などをぼかすことによって緩めることができ、緩さの度合いによっては語り手・聞き手(読み手)の双方にとって意味の不明確な音/文字の羅列さえ採用可能となります。また例外的な手法として、著者や語り部による意訳という体裁をとり、日本語や英語などの既存言語を命名に用いることもできます。*8

したがって、架空世界を舞台に一から*9物語を創作する私の場合にも、日本語の呼称なりランダムカタカナ語なりをテキトーに考えて名付けるだけでよかったはずでした。が、「日本語や英語ではそれっぽくない」と考えた私は、またしても架空言語を用いることにしました。

私は当然まずシンダール語の借用を考えましたが、手持ちの書籍に載っていたシンダール語の語彙は少ないというほどでなくとも決して多くもありませんでしたし、こうすればより多くの語彙を獲得できる、といったあてもありませんでした。何より、私がしようとしていたのは『指輪物語』の二次創作ではなく、シンダール語を借用するのは不自然でした。他の既存の架空言語についても同様です。

そこで私は、自らが新たな架空言語を創作するという結論に達したのでした。

さて。

ゲームの件が何処かに行ってしまったあたりで薄々お気づきのかたもいらっしゃるかと思うのですが、私には表層的な趣味に関して移り気なところがあります。ということは、ゲーム制作から架空地図・架空世界へと興味が移り、それから派生する形で言語創作という活動が生じたのと同様に、将来的には言語創作もまた副次的な趣味から中心的なそれへとシフトする可能性を秘めているはずでした。

けれども当時の私は、そのことについて自覚的ではなく、趣味の発展性に無頓着でした。ですから言語創作といっても言語のフルセットを構築することまでは意図しておらず、むしろ固有名詞を名付けるだけなら言葉のパーツを必要に応じて増やしていくだけで事足りると考えました。

例えば、私の架空世界には "dulesmiar" という地域名があり、"dules" は "低さ / 低いこと"、"miar" は "地表 / 土地" を意味します。これらは文法上は名詞*10であり、語形変化も機能語による仲介もなく単純に連結するだけで "dulesmiar" すなわち "低地(地方)" という別の名詞を構成することができます。こういった造語において、「修飾語を先、被修飾語を後にしてただ連結すればよい」ということ以外に意識すべき文法はありませんでした。専門的なことを学んでいけばもっと気になるところが見つかるのかもしれませんが、少なくとも私はそれ以外に規則めいたことがあるとは考えず、ただ思いついた音の連なりを反芻して感覚的に言葉を生み出していきました。*11

そうして、文法について考えずに済んでいるのをいいことに、文法を疎かにしたまま語彙*12ばかりを無秩序に増やしてしまったのでした。

このへんは知識ではなく私なりの解釈の話として読んでいただきたいのですが、

さきほど例示した "dulesmiar" など私の生み出した固有名詞の多くは、より単純な言葉を幾つか連ねて作った複合語です。複合語や慣用句は、それ全体として意味が共有されているか、意味が共有されていなくても全体として意味を持つと見なされます。そして部分ごとの意味を解釈することが可能であろうと、全体の意味のほうが優先されます。"dulesmiar" の語をまた例として持ち出しますと、あれは "低地地方" という特定地域を指し示すための言葉であって、仮にそこが低くなかろうとも、多くのひとが "dulesmiar" と呼ぶからには "dulesmiar" なのです。その呼称が地域を区別するうえで役に立つかどうかが重要なのであって、土地が高いか低いかはもはや二の次ということです。

一方、慣用句以外の句や文や文章は、まず部分ごとの意味の集合として捉えられます。例えば「低い土地だ」ということを言っている文があるとすると、その言及されている事物が "土地" であり、その土地が少なくとも話者の主観上で "低い" という性質を持つことは明白です。何らかの "低い土地" を指し示そうとしているか、何かが "低い土地" であると説明しようとしているかのどちらかであって、そのいずれにせよ "低い"・"土地" という各部分の意味が放棄されるわけではない、ということです。ただし、"低さ / 低いこと" と "低い" とでは意味するところに若干の差がありますから、その差異を表現するための仕組みが必要です。語形変化なり、機能語による修飾なりといった仕組みが。たぶん、そういう仕組みの集合体が文法と言われるものなのでしょう。たぶん。

とにかく、そういった仕組みの整備を疎かにしていた私の創作言語では述語が作れないので文を作るのも難しく、複雑な修飾表現もできませんでした。ですから言語創作が私のおもな趣味の一つとなって、私がその自らの創作言語を用いてキャラクター同士の会話を描写してみようと思い立ったとき、基礎文法を丸ごと整備するという課題が今さらのように浮上してきました。しかも、既存の語彙から後付けの文法に適合しない言葉を洗い出して変更する作業や、その変更した言葉を含む固有名詞を何千行ものテキストファイルから洗い出して個々の文脈を考慮しつつ修正していく作業まで、芋づる式に発生したのです。そんなわけで私は、過去の自分の無計画さを少しばかり後悔することになりました。*13

あ、そうそう。これから言語を創作するというひとは、ぜひくみせんせーの2日目の記事とかを読みましょう。下準備はだいじ。鎌も鉈も持たないで藪に突っ込んだら前に進むのは大変なのです。

ともあれ、

そうして私の創作言語は一応文法と呼べるものを獲得しつつあり、単なる語彙ではなく言語と呼べるものになってきています。まだ変更のアイディアも少なからずあるので、"〇〇語の文法" といった確固たるものがあるとも言えませんけど。*14

来年こそは文法を安定させて、具体的な解説でも書けるようになりたいものです。*15


一方その間、

私はべつに、自然言語との接点を全く持たずに過ごしてきたわけではありませんでした。といってもそれは、中高生の頃に隣家の住人が英語圏の民だったけれども私の英語の成績はとくに伸びなかったとか、海外旅行のために現地語を一夜漬けしたとか、ヴェネツィアでちょっとだけ運賃を水増しされたから次は言い返したい*16とか、最近になって某ゲームを遊んだわけでもないのに何故かエスペラントを始めてみたとか、せいぜいそんなものです。あとは、自分の言語創作に役立てようと思って、私にとって最も身近な言語である日本語をいくらか見つめ直したくらい。

言語というのは、

多くのひとにとってコミュニケーションや情報伝達の手段であり、誰かと話すために、あるいは情報なり利益なりを引き出すために習得したり用いたりするものであるように見えます。

けれども私にとっては、組み立てたり飾り付けたりして遊ぶものでした。あとは、自分がおもちゃにしているそれを改良するために、他のをちょっと分解してみて参考にしたり。そう、要するに工作、ものづくりです。

表層的な趣味は移り変わっても、こういう根っこの価値観はそうそう変わらないようです。少なくとも、これまでの私はそうであったように思われます。たぶんこれからも、私はこうあり続けるのでしょう。こうあり続けたいものです。以上、こういう言語趣味者も世の中にはいるのです、というお話でした。

*1:少なくとも今年は、他に語れることがないので……。

*2:当時の私にとって、クウェンヤはもっと情報量が乏しく、扱いにくいものでした。

*3:何を言ってるのかわからないというひとは、『鋼の錬金術師』を読みましょう。

*4:"naur" がシンダール語で炎を意味すると言えば、某うちのこの名前や容姿の由来も何となく想像がつくことと思います。

*5:もちろんこれは修辞であって、数学的に無限だと言っているわけではありません。

*6:『まおゆう 魔王勇者』など、あえて固有名詞を使わずに描かれている作品も世の中には存在しますが、そういった場合でも個々の事物を区別できるような呼称は導入されます。

*7:とくに根拠のない話をするときの断定回避口調。以下も同じく。

*8:例えば、『指輪物語』における "裂け谷" や "風見が丘"、さらにはローハンの地名の多くがそれにあたります。

*9:ゼロからと言ってもいいのですが。

*10:厳密に言うなら、単独で名詞としても用いられる形態素、であろう。おそらく。

*11:そういえば "花" は最初 "alfa" という語でしたが、この綴りを決めたときには日本語・英語・中国語あたりを参考にして、口先で調音する子音と口を大きく開く母音からなる音の連なりを作れば花らしいく感じられる言葉になるのではないか、といったことを考えたような気もします。でも、だいぶぼんやりとした記憶なので私の脳が捏造したことかもしれません。

*12:と言ってしまうと語弊がありますが、ここで言いたいのは内容語や内容形態素のことです。

*13:はい……

*14:変更途中の仮文法に則って書かれた文も挙げてよいのであれば、こういった例があります。

*15:たぶん、去年の末頃か今年の初め頃にも言ってた。

*16:その後、ななゆーのイタリア語はとくに上達していない。