ひとが死に近づくのは嫌いだ。

ひとが死に近づくのは嫌いだ。

死に近づくひとが嫌いなのではない。

私はこう思っている。
多くのひとは死に近づくと、やがてその影響を受け、善悪のどちらとは言わないが何らかの形で考えを変える。
そうすると私にとって、わかるような気がしにくくなる。
そうでないひとは私にとって、わかるような気がすることが多い。

わかるような気がする、というのは私にとってだいじなことである。
私の周囲のあらゆることが、私の置かれている状況を構成している。
だから、いろいろなことがよりわかるというのは、自らの置かれている状況がもっとわかるということである。
これこそが人類の生存能力の根本だ、とも、私は思っている。
わからない、というのは弱いということであり、本能的な不安に繋がる。
弱いのが悪いと言っているわけではない。
けれども、悪くないということは不安がないということではない。
そして、不安が強かったり多かったりすれば、そのぶんだけ安心も強かったり多かったりしないと私はつらい。
この、つらいというのは我慢しなければならないということではなくて、いても立ってもいられず、つらくなくするために何かせずにはいられないということである。
その点、わかるような気がしていれば実際にわかっていようといなかろうと、私はつらくないし、落ち着いていられる。

だから、ひとが死に近づくのは嫌いだ。
けれども、こうしてこれを書くという私の振る舞いもまた、私が誰かの振る舞いを見てそのひとの死が前よりも迫っていると感じてしまったがゆえのことであって、これは私自身が未来のいつかに起こるであろうそのひとの死に近づいているということに他ならない。
私は死に近づき、その死をこうしてあなたにも見える場所に置いておくことで、あなたをも死に近づけている。
これはいったい何なのだろう。